9.Mon amie




 仕事から帰り、アパートのドアを開けると、クラシック音楽が流れていた。クラシックに疎い私にも、それがチャイコフスキーの「白鳥の湖」であることくらいはわかった。音楽に合わせて、ばふこがヒラヒラと手足を動かしながら現れ、
「9月ね。芸術の秋よ。わたくし、バレエを習おうかと思うの」
と高らかに宣言し、私は、
ああ、なんだかまた面倒なことが始まったなぁと、密かにため息をついた。

「ほら、見てちょうだい」
ばふこは私の目の前に、一枚のチラシを置いた。
「なになに? 『秋季新入生募集 初心者歓迎 何歳からでも始められます どなたもお気軽にご参加ください モナミバレエ学院』?」
「駅前で配っていたのよ。だれでもいいんですって。明日、行ってみるわ」
紅潮した顔で、鼻息も荒く言う。

 翌日は、私も仕事が休みだったので、ばふこにくっついてモナミバレエ学院まで見学に行った。学院といっても、古い雑居ビルの一室を使った、小さなバレエ教室だった。
「わたくしが、当学院の院長、下堂薗麗子です」
 そう挨拶した初老の女性は、白髪交じりの髪をシニヨンに結い、黒いぴったりしたワンピースを着ている。細い体のラインが際立ち、小さな頭がちょこんと乗った姿は、まるでこけしのようだった。教室には、院長以外にだれも見当たらない。

「しもどうぞのって、貴族みたいなお名前ですね」
ばふこはうっとりと言った。
「あなたのお名前と、それからお年も教えていただけるかしら?」
「コーデリア・フィッツジェラルドと言います。多分、1歳くらいだと思います」
ばふこが答えるのを聞き、私は思わず目をむいたが、彼女はそれには気づかないふりをした。
「1歳なら、ジュニアクラスの中でも最年少ね。学院名のモナミは、フランス語の“Mon amie”、『私の友』という意味です。バレエは、生涯を通じてあなたのよき友となってくれるでしょう」
院長は、信念に満ちて説明した。

 「ちょっと、ばふこ。あんた、コーデリアなんちゃら、って一体どういうことよ?」
学院からの帰り道、ばふこを問い詰めると、
「だって、下堂薗麗子なんて名乗られて、ばふこだなんて言えないわよ。それにしても、上品で素適な女性だったわね。バレエを習ったら、あんなふうになれるのね。そうそう、レッスンまでにレオタードを用意しなくちゃ」

 ばふこに強くねだられ、二人で渋谷の公園通りにあるバレエ用品専門店「チャコット」へ出かけた。
 そもそも私は懐疑的だったのである。バレエ用品専門店に、犬用のレオタードがあるとは思えない。しかし、ばふこは、どうしてもその店に行きたがった。案の定、
「お客様のサイズのものは、お作りしていないんですよ」
店員にそう言われて、ばふこは見る見るしょんぼりしていった。そんな姿を見たくないから、反対していたのに......。ばふこは、「ハンバーガーでも食べない?」という私の誘いも断り、帰りの山手線の中でも、むっつりと押し黙ったままだった。

 下堂薗院長に理由を話したら、レオタードは着なくてもよい、と言ってくれる気がした。しかし、私は、ばふこが本当は、あのコスチュームを着たいばかりにバレエを習おうとしていることを知っている。犬用品専門店に行けば、ひょっとして…という淡い期待を抱いて、仕事帰りにこっそり何件か見て回ったりもしたが、結果は芳しくなかった。

 そんなある日、私の携帯電話に、千夏さんから連絡があった。
「今夜、しょうこさんの部屋に行ってもいいかな?」
何だろう。就職活動の相談かしら、と思いながら、深くは考えずOKした。彼女は19歳のはずだが、なかなかいけるクチで、私の飲み友達になってくれていた。最近は忙しいのか電話がなく、どうしているかと思っていたところだった。

 その日、ばふこはアルバイトが遅番で、まだ帰ってきていなかった。
「実は、ばふこちゃんから頼まれたものがあって」
座布団に座るなり、千夏さんは鞄の中から紙袋を取り出した。
「レオタードを作って欲しいって頼まれたの。ばふこちゃん、すごく困っていてね。チャックのついたお財布から、こう、小さく畳んだ千円札を3枚出して、これでなんとかできないかって」
「まあ! ごめんね、そんな安い値段で。あの子、時給が安いから」
慌てて私の財布を取り出そうとするのを、千夏さんは押しとどめて
「ううん、そういう意味じゃないのよ。うれしかったの。そんなふうに、人から必要とされたり、大事なお金をもらったりってことが、今までなかったから。学校の課題もほったらかして、レオタードを先に作っちゃった。自信作よ」
袋から取り出したピンク色の小さなレオタードの胸元には、「Baffy」と刺繍が施され、yの字の先にハート型をした赤いビースが縫い付けられている。材料費だけで、3000円以上はかかったであろうことが、一目で見て取れた。
「あの子、喜ぶわ」
私は、そう言うのがやっとだった。
「今回のことでね、私、市販品がなくて困ってる人のために、服を作る仕事がしたいなって思ったの。就職活動は、そっちの線で頑張るつもり。カレシもいいんじゃないかって、応援してくれているし。自分からやってみたいと思ったことは初めてよ」
千夏さんは誇らしそうに言った。どうやら、彼女は自分の行き先を見つけたようだった。

 アルバイトから戻ったばふこは、ピンク色のレオタードを見ると、はっと息を飲み、「きれいね」と言うと、俯いたまま、黒い肉球でしばらく刺繍を撫でた。
そして、顔を上げると、右前足で千夏さん、左前足で私の手を取り、
「あなた方はモナミ、わたくしの生涯の友になるでしょう」
と言った。その瞳は潤んだように光って見えた。

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