8.マドンナ




 ある日曜日の夜、ダイエーからの帰り道に、ホルモン焼きの店の前を通りがかり、開け放った店内を何気なく覗くと、美容師のHIDEKIがいた。異星人のHIDEKIがホルモン焼きを食べることに、私はちょっと驚いた。HIDEKIの細い小さな体は、地球の食べ物は一切、消化吸収できていないように思われた。

 店は小さなカウンターと、テーブルが3卓。常連客は、カウンターのママを取り囲み、賑やかに騒いでいた。ママは、年の頃は50過ぎといったところ。目も唇も胸も腰も大きく、歯茎を剥き出しにして、ガハハハと豪快に笑う。オヤジたちは、ママの周囲で、しきりに「トミエちゃん、トミエちゃん」とさえずっていた。そんな集団とはひとり離れて、HIDEKIはテーブル席で、生ビールのジョッキを前に、テレビのプロ野球中継を見ていた。

 肉が焼ける、かぐわしい香りに満ちた店内に足を踏み入れ、私はHIDEKIの横顔に声をかけた。
「HIDEKIさん、こんばんは」
しかし、HIDEKIは口を開けたまま、巨人阪神戦に見入ったままである。
「HIDEKIさん、こんばんは」 もう一度、言うと、
「ほら、ヨシオちゃん! このお嬢さん、あんたのこと呼んでんじゃないの?」
ママがよく通る大きな声で、カウンターの向こうから叫んだ。
やっとHIDEKIはこちらを見ると、あからさまにうろたえた表情をした。
「あっ、この間の。どうも、こんばんは」
「HIDEKIさんって、いう名前じゃなかったんですね」
「いや、あの、本当の名前は、良夫と言います」
慌てて呟くと、HIDEKIは目を伏せた。つられて私も伏せた。そのとき、テレビのアナウンサーが巨人の勝ちを大きく告げた。

 そのまま、なんとなくHIDEKIと向かい合って飲む形になった。HIDEKIは北関東の出身だといい、アルコールが入ると、ちょっと訛が出た。
ぽつぽつ世間話をしながら、ビールを1本空ける頃には、私はダイエーで買った食料品のことが気になり始めた。早く冷蔵庫にしまわなくちゃ。
 勘定を済ませて店を出ようとすると、
「作り過ぎちゃったから」と、店のママが弁当箱大の紙包みを渡してくれ、そして
「若いお嬢さんが来るような店じゃないけれど、よかったら、また寄ってちょうだいね、ガハハハ」と笑った。
 家に帰って、もらった包みを開けると、中はタッパーに入った筑前煮だった。竹輪は、甘くてしょっぱい、懐かしい味がした。
「ばふこも食べる? 竹輪、おいしいよ」
「食べない。竹輪は魚でしょ。魚は嫌いよ。おお、ぞっとするわ。それよりも、頼んでおいたシュークリーム、ちゃんと買ってきてくれた?」
やっぱり......。予想通りの、ばふこの反応だった。

 次の日曜日、借りていたタッパーを返しに、そのホルモン焼きの店に行った。店はまだ開けたばかりのようで、客の姿は見えなかった。
「ご馳走様でした。おいしかった」
タッパーを渡すと、
「あらあ、いつでもよかったのに。ガハハハ」
ママはまた大きな声で笑った。よく笑う人だった。
 そのまま立ち去ることもできたのだが、私はカウンターのイスに腰を下ろすと、ビールを頼んだ。つきだしのインゲンをつまんでいると、ママが
「いただき物なんだけど、召し上がれ」と、梨が2切れ乗ったガラス皿を、ごく自然に前に置いた。誰かに果物をむいてもらうことなど本当に久しぶりだと、そのとき気が付いた。

 「あたしが梨を好きだということを話したら、ヨシオちゃんがお土産に買ってきてくれてね」
「ヨシオちゃんって、美容院の? へぇ......」
E..T.のHIDEKIが、肉感的な熟女にプレゼントをするということが、意外に感じられた。ママのほうがHIDEKIよりも10キロ以上は重いように見える。
「もてるんですねぇ」
「こんな仕事は、もてなきゃ務まらないからねぇ。ガハハハ。そう言うお嬢さんも、もてそうね。振り回されている男が1人2人じゃ足らないって感じがするわよ」
 ママは言ったが、それは彼女の思いやりだったと思う。だって、事実はまるで違うのだから。日曜日の夜、ぶらぶらと時間を持て余しているだけでも、デートをする相手などいないと知れるものだ。20代の女が、傍目にも「独り身」だと思われるのは、居たたまれないほどに惨めでやるせなく、きっとママはそのことを知っていたのだろう。何気ない優しさに、私は泣き出したいような気持ちになった。
 「もてるようになったのは、40を過ぎて、結婚も仕事も、ひと通りのことに失敗してからね。がんばっても、うまくいかない人の気持ちがわかっちゃうのよねぇ。失敗しても、そのお陰でもてるようになったんだったら、悪くないわね。もっとも、やってくる男もリストラされたとか、女房に逃げられたとか、そんなのばっかりになったけど。ガハハハ」

 帰りがけ、ママはまたしても包みを持たせてくれた。
「一人暮らしなんでしょ? ちゃんと野菜を食べなさい。タッパーはいつでもいいわよ。こんなおばさんと話がしたくなった時で」
私は素直に包みを受け取った。人の好意に甘えられることが、心地よかった。
常連客の一人は、
「毎日話したくなっちゃうから、毎日来ちゃうんだよなぁ。お姉ちゃん、トミエちゃんね、プロボウラーだったんだよ、すごいだろ。結構いいところまで行っていたんだよね」
そんなことを、赤い顔で嬉しそうに私に話した。
 プロボウラーが、どうしてホルモン焼きの店に落ち着いているのか、人生って山あり谷ありということか。でも、トミエさんは、今の暮らしがまんざら気に入らないでもなさそうに見える。

 今回のタッパーの中には、つきだしのインゲンが入っていた。
「ばふこも、食べる? インゲンのゴマ和え、おいしいよ」
「食べない。野菜は嫌いよ」
やっぱり......。聞くまでもないことだった。ちょっと意地悪な気持ちで、
「ビタミンをとらないと、シワになりやすいんだって」
そう脅かすと、ばふこは怯み、額に深くシワを刻みながら、がんばって二口食べた。
 ばふこは、どこまでも女らしく、前向きだ。インゲンと格闘するばふこを傍らで見守りながら、その心意気は見習いたいものだと私は思った。


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