7.白ウサギと黒ネコ




 ばふことのドライブのあと、私は、まず美容院に行くことにした。
古典的だけれど、気分を変えるためには、一番いい方法のように思えたからだ。
裏通りの高架線の下、ひっそりとある、「HIDEKI」という名のその美容院に行ってみようという気持ちになったのは、やや湿った佇まいとちょうど波長が合ったからかもしれない。表通りの明るく、元気で、ハイセンスな、ポジティブ120%の店は、今の私にはちょっと暴力的だった。

 土曜日の夕方だというのに、店内に客は一人もおらず、店長のHIDEKIと思しき男が、一人でぼんやりとビデオを見ていた。
 HIDEKIは、なんだかE..T.に似ていた。背が低く、痩せていて、だから相対的に頭が大きくうつった。シルバーがかった長髪を1つに束ね、広く突き出た額が印象的だった。40代とも、60代とも見える年齢不詳な感じも、E..T.っぽかった。

 「今日はどうします?」
鏡を前に、私の髪をブラッシングしながら、店長(たぶん)が聞く。必要以上に長い細い指には、大ぶりなシルバーの指輪。耳たぶには、やはり大ぶりなシルバーのピアス。古代人の勾玉やなんかの装身具を連想させた。
「どうしようかな。まだ、決めていないんです。ただ、イメージを変えたくて」
すると、店長は鏡の中の私の目を見つめ、ゆっくりと
「今、あなたは、自分自身にどんなイメージを持っていますか?」と問い返してきた。
 予想外の言葉に、一瞬、動揺した。今まで行ったことのある美容院では、こう話すと、次々とヘアカタログを持ってきて、流行のスタイルを薦めるだけだった。

 「イメージ、ですか。......ウサギかな。白ウサギ」
「そう。ボクは、ウサギちゃん、かわいくて好きだけど」
店長はくどいているわけではないらしい。生々しい感じが一切しないので、それとわかる。だって、何しろE..T.なのだから。
「でも、私は、もうウサギはイヤなんです。変化を待っているだけの、弱い生き物って気がするから。大人しくて、存在感がなくて、意思もなくて。会社を休んでも、30分くらい、誰も気がついてくれなくて。そういう風に見える」
ひと息に吐き出すと、店長は、もう一度、鏡の中の私を見た。なんて情けないことを言っているんだろう、私は。でも、誰にも話したことがない、本当の気持ちだった。それを初めて会う、異星人に打ち明けている。

 「ふうむ」
顎に手を当て、しばらく考えたあと、HIDEKIは、
「よし。じゃあ、今日は、黒ネコのイメージにしよう。ちょっとダークな色で染めてみようか。ワイルドな感じが、きっと似合うよ」
くるくるとハサミを回し、歌うように言うと、奥からアナログレコードを1枚取り出して、小さな店内にかけ始めた。聞いたことがある曲だった。
「この曲、何ですか?」
「ヴァン・マッコイの『The Hustle』。いいでしょう?」
 HIDEKIは、お客に応じて、流す曲を選ぶのだという。改めて見回すと、この店は、ヘアカタログの代わりに、いたるところにCDが積み上げて置かれている。HIDEKIは廃業に追いやられたレコード店みたいだった。はたして美容師としての技術についてはいかがなものか、はなはだ不安はあったが、それでも、
「はぁ、じゃあ、その黒ネコで、ひとつお願いします」
と言ってしまったのは、『The Hustle』が気に入ったからかもしれない。
依怙地な心が溶けて、踊り出すような、そんなマジックが、この曲には秘められている。

 「あら、なかなかいいじゃないの。ちょっと色っぽい感じになったわよ」
家に帰ると、風呂場から顔だけ出して、ばふこが言った。湯船に湯を張っているところのようだった。
 「黒ネコみたい?」 そう聞くと、
ばふこはさらに眉間にシワを寄せて、「何の話? ネコは嫌いよ、臭くって」とにべもない。「あいつら、ぺろぺろ体を舐めて、それでお風呂だなんて、しゃあしゃあと言うんだから」
 そして、スヌーピーの歯ブラシで丁寧に歯を磨くと、湯の中にアロマオイルを垂らして、ゆっくりと体を沈めた。軽く1時間はかかりそうだった。ばふこは、いつだって長風呂なのだ。

 「ビール買ってくるね」
風呂場のばふこに言い置いて、私は家を出ると、風を切って自転車で走った。セットしたての黒い髪から、ふんわりと整髪料の匂いがする。耳に『The Hustle』が残っている。いつもの道と反対方向に角を曲がってみた。何年も住んでいながら、ほとんど足を向けることのない通りだった。
 そうだ、ネコのように、好きな所へ行ってみよう。好きな物を食べて、好きなときに眠ってみよう。私にも、好きなことが、いっぱいあったのだ。今日から、好きな気持ちを一つずつ取り戻そう。私は、胸いっぱいに、夏の夜の甘い空気を吸い込んだ。


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