6.センチメンタル・ドライブ




 それは、7月半ばのある朝のことだった。
「ああ、暑いわねぇ。イヤになっちゃうわねぇ」
その日のばふこは、白地に赤い水玉模様のスカーフという装いで、扇風機の前に陣取り、スカーフをヒラヒラさせていた。暑いのならば、なぜそのスカーフをとらないのか、私には理解できなかったが、きっと「レディのたしなみ」かなんかなんだろう。私は黙って新聞を読んでいた。新聞が扇風機の風でバタバタして、読みにくかった。

 「海か山にドライブしたいわねぇ」
ばふこは、チラリとこちらを見て、続けて言う。ちなみに、私たちは車を持っていない。彼女は、いつも気まぐれなのだ。
 それでも黙っていると、こともあろうに、
「あんたさぁ、ドライブに連れて行ってくれるような男友達、誰もいないの?」と聞いてくるではないか。

 私は手にしていたカフェオレ・ボウルをあやうく取り落としそうになった。無防備だっただけに、パンチは効いた。よろよろとリングサイトに倒れこんだところへ、2発目の攻撃。
「そういえば、あんた、いくつだっけ?」
素朴な疑問を口にしてみた、といった感じだが、破壊力は満点だった。

 バチンと音を立てて扇風機を止めると、ばふこの水玉スカーフが、首からだらりと垂れ下がった。ばふこはびっくりした顔で、私を見上げた。
「ドライブに連れて行ってくれるような男友達なんて、誰もいない! 28の今もいないし、これまでもいなかった。だから、ドライブの話はおしまい! それから、ばふこ、あんたさぁ、暑いなら、まずその派手派手しいスカーフをとったらどうなのよ!? 扇風機回すのだってタダじゃないんだからね。お金貯めて、下北沢に住みたいんでしょっ」
 新聞を乱雑にたたむと、そのままアパートの部屋を出た。背中にばふこの視線を感じた。自分でも、ちょっとどうかと思う対応だったが、平静を装う余裕はなかった。

 今、ボーイフレンドがいないのは事実だが、これまでもいなかったというのはウソだった。私にも恋人がいた。デートに合わせて、新しい服を買ったり、美容院に行ったり、マニュキアを塗ったりしていた。二人でドライブに行くとき、私は当然のように助手席に座った。男が乗っていた車はかなり古かったけれども、そんなことは全然気にならなかった。私は、男のことが本当に好きだった。
 男と別れてからは、車に乗ることはなくなり、オシャレにも力が入らなくなった。平凡な私の、平凡な失恋だった。でも、平凡だからといって、痛みがないわけではない。1週間で3キロ痩せて、その後、4.5キロ太った。身も心も重く、何もかもが面倒だった。虚けたように暮らしていたところに、突然、ばふこはやってきたのだ。

 この夏休みは何をしたらいいのだろう。一人(と一匹)で過ごす、東京の夏。ばふことは、新しくオープンした六本木ヒルズに行く約束をしていたのだが、それくらいしか予定がない。友人たちは、デートや旅行に忙しい。真夏の青い、高い空を思い浮かべ、ため息が漏れた。

 数日後、アルバイトから戻ったばふこは、何やら手にしている。駅前にあるレンタカー屋のパンフレットだった。
「あんた、免許持ってんでしょ」
レンタルビデオショップの会員登録をしたとき、カウンターで提示したことを覚えていたらしい。
「あんただって、ドライブ行きたいんでしょ。レンタカー借りて行くのよ」
「えっ、でも、もうずいぶん運転していないし」
2年前の夏、帰省したときに、実家のセダンを運転したのが最後だった。
「2年前なら、5年前よりマシよ。自転車だって、一度乗れるようになれば、しばらく乗らなくても大丈夫じゃないの。車だって、似たようなもんでしょ」
「えっ、ばふこ、自転車乗れるの?」
「バカねっ、イヌが自転車に乗れるわけないじゃないのよっ、一般的な話よっ。四の五の言っていないで、この週末、行くのよっ。ホントに行きたけりゃ、自分の力で行くのよっ。連れて行ってもらえないだの言って、メソメソしないの、ったく」
 ばふこは、100円ショップで、関東の広域地図も買ってきていた。有名な観光地の海を目指し、二人で曲がり角がなるべく少なくなるコースを選んで、地図の上を蛍光ペンでなぞった。このとおりに行きさえすれば、必ず海に着くはずだった。

 当日は、あいにくの曇り空だった。朝一番で、軽自動車を借りた。5000円だった。私が払った。
「安いもんね」
ばふこは言い、さっさと助手席に乗り込んで、シートベルトを締めている。
 どうしよう。東京の街を、ペーパードライバーの私が運転できるんだろうか。怖くなってきた。でも、今さら後戻りはできない。ばふこは、CDラジカセまで持って来ていて、やる気満々なのである。
 キーを回すと、重い手ごたえとともにエンジンがかかった。鼓動が速くなる。もう、行くしかない。手の平の汗をGパンで拭い、ハンドルを握りしめた。

 車を走らせ始めると、ばふこは、さっそく中山美穂や小泉今日子の曲に合わせて、機嫌よくハミングしている。窓から入る風に、首のスカーフがヒラヒラとはためく。ナビをする気はまったくないらしい。私は、ただひたすらに前を見つめて運転し、信号で止まると、あわてて膝の上の地図を調べた。

 道は混んでいたし、途中、何度か曲がり角を間違えもしたが、日が傾き始める前には、どうにか海にたどり着いた。肩がガチガチに凝って、目もシバシバしたが、とにかく一人(と一匹)で、ここまでやって来た。浜辺には、ファミリーやカップルばかりが目立つ。そんな中で、ばふこと肩を並べて白く光る波頭を見つめていると、唐突に涙が溢れてきた。ばふこはちょっとためらった後、思い切った様子で大事なイチゴのタオルハンカチを貸してくれた。

 海沿いのファミリーレストランで、ばふこはお子様ハンバーグランチとプリンパフェを、私は海鮮丼を食べた。
「男にもてないからって、もうメソメソすんじゃないわよ。メソメソ女のところに、男は来ないからね。だいたい、うっとうしいじゃないの。それから、あんたも、もうちょっとオシャレするといいわね。ぱっと明るい服でも着たら? 見かけは大事よ」
身も蓋もない言い方だが、今回ばかりは、神妙に頷くしかなかった。ばふこに借りができたな、と私は思った。本格的な夏を前に、私の中で何かが一つ終わった気がした。


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