4.パソコン




 初月給の一件以降も、ばふこは腐る様子を見せないで淡々と100円ショップで働いていた。それは意外であり、少々感動的でもあった。

 実は私は、ばふこに内緒で店長に抗議をしに行ったのである。
なぜに、ばふこはヒトの半分以下の賃金なのか、と。
すると店長は、「ばふこは背が低いので、5つある棚板の、下から2つまでしか手が届かない。だから、ヒトが800円のところ、5分の2に相当する320円なのである」という説明をした。
 そのときは、そうか、それならば仕方がないのか、としぶしぶ帰ってきたのであるが、その理屈を拡大すると身長150センチの人は、身長180センチの人の6分の5の賃金ということになってしまう。そんな子どもだましの屁理屈に言いくるめられた自分が情けなかった。

 「ねえ、ばふこ。100円ショップで働くの、嫌になったりしない?」
おずおずと聞いたことがある。
すると、ばふこは前を向いたまま、
「そんなにすぐに嫌になっているようじゃ、ビックになれないわ」
と答えるのである。

 心底びっくりした。
「ばふこ、ビックになりたいの?」
「なりたい。なるわ。きっとなる」
セリフはずいぶん芝居がかっているが、横顔は真剣だった。
「ビックって、どうやったらなれるの?」
ばふこは、ちらりと私を見ると、「そんなこたぁ、自分で考えるのよ」と言い放つ。
私は、ただただ呆然と、ばふこの、シワに半分隠れた目を見つめていた。

 ある日、ばふこは、考えた末、これからはパソコンが使える犬になることに決めた。特にエクセルとワードを覚えて検定を受け、店長を見返してやると宣言した。
 ばふこに聞いた話では、店長はパソコンが使えないそうだった。書類仕事でパソコンを使わなければならないときは、アルバイトの女の子に、「やっといて」と命じるのだそうである。店長が使えるのは、ワープロ機の「オアシス」だけだった。ばふこはそれを揶揄して、「オアシス店長」と呼んだ。
 そして、「あんたの英語は進んでいるの?」と追求してきた。英語を勉強していい仕事を見つけ、下北沢に住むのだとしばらく前に約束していたのだった。私は、ややもすると忘れそうだが、ばふこは決して忘れない。

 ばふこの決意を聞いたハンバーガーショップの千夏さんが、「パソコンなら、カレシが売ろうかなぁって言っていたよ。ばふこちゃんが自分のパソコンを欲しがっているって、伝えておこうか」と、電話をしてきてくれ、そして翌日には、カレシの下宿まで受け取りに行くことがトントンと決まった。

 カレシはいつぞや、ばふこの初月給祝いをしたとき、ミスターチルドレンを甲高い声で歌っていた人である。地方から上京して、美大を目指して浪人中だと言っていた。
 ばふこと2人で訪ねると、部屋は今時めずらしい風呂なし共同トイレの6畳間で、少年ジャンプとビック・コミック・スピリッツとカップ麺とペットボトルと着がえの類と、木炭とスケッチブックと写生のモチーフであるリンゴが床に雑然と散乱していた。りんごは萎びかかっていた。壁に大きく人気女性タレントのポスターが貼ってあって、なんだか美大を目指す若者の部屋とは思えなかった。

 カレシは佐藤くんという。佐藤くんは2枚しかない座布団をすすめてくれ、ばふこはすぐさま、きれいな方を選んでチョンと正座した。私が残る1枚に座ることをためらっていると、佐藤くんは気を使って、押し入れから敷布団を出し、3つ折りにした上に座った。
お殿様みたいに見下ろす格好になることをまたもや気にして、
「ごめん、こっちの敷布団の方がよかったかな?」
と聞いてくれたが、ばふこも私ももとより遠慮した。座布団は、ちょっと湿っぽかった。
 佐藤くんは、さらに、グラスにお茶を注ぎ入れ、お茶請けにぶどうパンを出してくれた。「お菓子がなくて」と、またモゴモゴと口の中で謝った。グラスの底は汚れているようだったが、あまり見ないようにして一口だけ飲んだ。ぶどうパンは固かったが、佐藤くんに悪いので、ばふこも私も1枚ずつ飲み込んだ。

 「パソコンあると遊んじゃって、ダメなんだよ、オレ。親父もお袋も、無理して浪人させてくれているしさぁ、今年こそがりっと決めたいんだ。千夏とも遊びたいしさ、へへ」
 佐藤くんはパソコンを手放す理由を説明した。そして、ばふこに、起動と終了、文字の入力、ファイルの保存のやり方などひととおり教えた。ハードディスクはフォーマットされ、エクセルとワードもちゃんとインストールされていた。「ばふこちゃん家からも、インターネット使えるように設定しといたから」などと、さらりと言う。佐藤くんは、ハンサムでもないし、イケてるタイプの男の子ではないけれど、いい奴だな、と私は思った。千夏さんは、佐藤くんのこういうところが好きなのかもしれない。

 「あー、それにしても、パソコンなくなったら、エロサイト見られなくなっちまうなぁ」
これまたさらりと言う。
「エ、エロサイトですか」
ばふこと声を合わせて呟くと、佐藤くんは壁のポスターを見上げながら、
「なあ、この娘、千夏に似ていない? けっこう好きでサ、オレ」と、照れた。

 佐藤くんは、タクシーを呼び、パソコンを積んでくれ、別れ際に「がんばれよ」とばふこの頭を撫でた。それなのに、家に帰ったばふこは、「この箱の中にエッチな写真がいっぱい入っているのかしら」とフロッピードライブの隙間から覗き込んでばかりいる。「電源入れてみたらわかるんじゃないの?」と言うと、「キャア恥ずかしい」と、体をくねくねさせる。
 その日は夜更け過ぎまで、どうしようキャア恥ずかしい、と嬉しそうに騒いでいた。エクセルもワードもビックになる話も、まるで興味がないらしい。呆れた私は、憮然としつつ、ひとりで先に眠った。



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