3.傘


 朝はカフェオレ・ボウルで、カフェオレを飲む。ばふこはコーヒーが飲めないので、牛乳を飲む。これでもか、というくらい蜂蜜をたらして飲む。牛乳を飲むなら、普通のコップでも十分だと思うのだが、このカフェオレ・ボウルがいいのだそうだ。
 このカフェオレ・ボウルは、2人で自由が丘に行ったときに、ばふこがどうしても欲しいというので買った。ばふこが赤い花柄、私が青い花柄。ばふこは、自由が丘がたいそう気に入り、ここに住みたいと言っていた。今の家からは、電車を乗り継いで1時間以上かかる。

 「ねぇねぇ、やっぱり、自由が丘に住まない?」 彼女は諦めるということを知らない。
「私の給料じゃ無理! 私だって、上京してきたときに調べたんだから」
「あんた、給料少ないの?」
「少ない!」
「ふうん」

 すると、ちょっと考えてから
「下北沢でもいいわよ」
 下北沢も2人で行った。ばふこは、女性誌を買いこんできては、かわいい雑貨屋さんが紹介されているページの端を折っていたりするので、週末には連れて行ってやっていた。ばふこは一人では電車に乗れない。電車とホームの隙間に落っこちそうで怖いのだそうだ。これだけぷくぷく太っていたら、もし足を踏み外しても落っこちるということはないだろう思うのだが、黙っていた。
 下北沢では、北口と南口をくまなく歩き、ソフトクリームを食べて、カトラリーを買った。ばふこが今、手に持ってヨーグルトをすくっているやつだ。1本1200円もした。100円ショップでもスプーンは売っているが、ばふこはこれがいいと言ってきかなかった。形から入る犬のようだった。

 「下北沢だって無理! すっごく家賃高いんだから。無理無理!」
「ふうん」
 私はだんだんイライラしてきた。最近、なにやかやで気持ちがささくれだっていたので、朝からこんな話は聞きたくない。

 「じゃあ、代官山は?」
「ばふこっ、あんたが食べているそのデニッシュ、いくらだと思ってんのよ? 菓子パン高いんだからねっ、食パンを食べなさいっ食パンを。それにパートで働いているんだから、家賃入れてよっ、食費も入れてよっ、ラクじゃないんだからねっ、ムダ使いばっかりしているから、下北沢だの代官山だのに住めないんだよ」

 一気にまくしたてると、私はそのまま黙って家を出た。わざと「パート」って言ってやった。ざまあみろ。駅までの道を歩きながら、英語でも勉強したら、もっといい職につけるのかなぁ、と考えた。駅前の大手英会話スクールは8階建てビルの最上階にあり、看板がはるか高みに見えた。

 小田急線は混んでいる。いつだって混んでいる。雨になるらしい。車内は湿気が充満し、ニンニクや整髪剤や歯槽膿漏やそのほか有機的な匂いが混じり合って、圧倒的な力で迫ってきた。一刻も早く、私は電車を降りたかったが、のろのろと電車は進んだ。面白がってじらすようにのろのろと進み、ようやっと経ってから下北沢に止まった。さらに車内にぎゅうぎゅうと人が押し込まれて、息ができなくなったあたりで、終点の新宿についた。ドアが開くと車内の気圧が一気に下がり、空気がはじけるように人がはじけた。ホームに押し出されて、膝をついたその拍子に、ズボンになんだか得体の知れないねばねばしたものがついた。

 仕事が終わった頃には、やはり雨になった。薄墨色の東京の街を、雨が洗った。山に囲まれた盆地の郷里では、おてんとう様が出ているのに雨が降ることがあった。この東京では、そんな雨はあまり見ない。雨はいつも、暗い空からしとしと降る。新宿発相模大野行きの小田急線の車窓から、陰気な雨を見ていた。

 駅前にある小さな本屋で、『今からでも間に合う! 英語学習術』という本を時間をかけて選んだ。立ち読みしているうちに、英語がしゃべれそうな気分になり、少し元気が出てきた。
 平積みされた『Hanako』を見るともなく眺め、「田舎の女子高生だったときには、代官山だの下北沢だのが特集されていると、無闇に行きたかったもんだなぁ」と思い出したりした。
 そして、暗い空を見上げて、「私はずっとこの東京という街に来たかったのだ、この街で暮らして、買い物をして、食事をして、映画を見て、友だちをつくり、たまにはお酒を飲んで、素敵な恋をしてみたかったのだ」と思い出したりした。ずいぶん長いこと、忘れていた。最近は映画もほとんど見ない。友だちも、思ったほどできなかった。焦がれてやってきたこの街で、私は楽しいのかな。幸せなのかな。
 ばふこのために、『Hanako』の最新号を買うと、私は店を出た。

 家まで走って帰ろうとすると、ロータリーの前で、見慣れた丸い小さな背中が、駅の改札口を見つめている。4本の足にはコンビニ袋をかぶせ、輪ゴムで留めてある。クマのイラストのついた子ども用の傘をさし、脇にはピンク色の折りたたみ傘。
「…ばふこ?」
背中から声をかけると、びっくりしたように振り向いた。
「あ、えと、雨降ってきたし」 
ピンク色の傘を差し出す。私は俯いて傘を見た。ばふこは不安そうに顔を覗き込んでいる。
「100円ショップのなんだけど。安っぽいかしら?」
「......買ってきてくれたの? かわいいね、ピンク色」
「そうでしょ、100円なんだけど、なかなかいい色だと思わない? 前に代官山で見たやつと、ちょっと似てない?」
「うん、そう思うよ」

 2人で、ハンバーガーショップに寄った。
「今日は、これで晩ご飯にしよう、たまにはいいよね?」
「それなら、わたくしは照り焼きバーガーと、ポテトのLサイズにしようかしら」
「サラダも食べなさい。買ってあげるから」
「ムダ使いはよくないことよ」
まったく、ばふこときたら、天才的な言い逃れのセンスを持っている。しかし、今日は腹も立たなかった。

 「そうだね。節約してお金貯めて、下北沢に住もう。自由が丘でも、代官山でもいい。私は英語勉強して、いい仕事探すから。がんばるから」
まるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
「すてきだこと、バルコニーがある部屋がいいわ」
「隙間から落っこちないようにね」
 大きく目を剥き、ぶるると身震いしたばふこのほっぺたの肉が揺れて、そのときだけ普通のブルドックみたいに見えた。


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