16. ペット可

「ちょっと、モモナさん」
 土曜日の午前中、一人で部屋にいると、アパートの裏手に住む大家がやってきた。ちょうどそのとき、ばふこはバイトに行っていて留守だった。
「最近、イヌ、飼っているでしょう? あのねぇ、入居のときにお話ししたと思うんだけど、ここ、ペットは不可なのよ。困るのよねぇ、約束は守ってくれなくちゃ」
大家は、バリッとパーマをかけた頭を振りながら、殊更に声をひそめている。
黒い髪が陰毛のように縮れていて、眉間のしわが剣山よりも険しかった。
「ペットブームだか何だか知らないけど、気まぐれで生き物とか飼っちゃダメだっていうのよねぇ、最近の人はそういうとこ、だらしないわねぇ」。
非難を含んだ目で言った。
「……すみません」
「だらしない」と断じられてしまった私は、ものすごくしおらしい顔をして、うなだれて見せた。間違っても、「私が飼おうしたわけではなくて、あっちが勝手にやってきたんですけど」とは言わなかった。
 しかし、私の演技には一向に心動かされる様子もなく、
「とにかく、処分するか、そうじゃなければ、悪いけど出ていってもらうしかないわねぇ」。
断固とした調子なのである。
……考えときます、来週には返事します。
そう答え、急いで大家を追い返すと、取るものもとりあえず部屋を出た。

 小田急線に乗って、下北沢で降りると、駅前の不動産屋を何件か回った。
「ペット可で、バルコニーのある部屋の資料が欲しいんですけど」。
ちょっとした厚さの紙の束ができると、それを抱えて、また電車に乗った。
車窓から見た東京の空は、色褪せたような青色だった。

 夜、バイトから帰ってきたばふこに資料を見せた。
「来月、下北沢に引っ越ししようと思うんだけど」
「どうしたのよ? 急ね」
「ばふこだって、前から、下北沢に住みたいって言っていたじゃない」
「そうだけど、でも……」
息を吸うと、とうとう覚悟を決めて、ゆっくり切り出した。いつまでも隠していられるわけでもない。
「あのね、言いにくいんだけど、大家さんがきたの。それで、ペットはダメだって。ばふこはもちろんペットじゃないし、家賃も入れてくれているけど、そう思わない人も多いのよ」
 ばふこの黒い目に一瞬、動揺の色がよぎり、その後、視線を落とすと、しばらく黙って肉球を見つめていた。
「ばふこ。ごめん、ごめんね」。
わけもなく謝ると、ばふこは、
「じゃあ、引っ越しするしかないわねぇ」とあきらめたように、ちょっと笑った。
ばふこの頭の中には、自分一人が部屋を出て行くという考えはまったく浮かばなかったようで、それがいかにも彼女らしく、私は少しだけ救われる思いがした。

 翌日の日曜日、二人で下北沢の1DKのアパートを見に行った。
張りぼてみたいな建物は鮮やかなクリーム色で、おもちゃのような小さなバルコニーもついている。
「これでいくら?」
「えーと、管理費込みで、9万6000円。礼金2の、敷金3」
「高いわね」
「でも、南向きだし、駅からも近いほうだし、いちばん条件はいいのよ」
申し訳程度の湯船に、洋式トイレのユニットバス。それを見たばふこは、
「便器がすぐ横にあるんじゃ、半身浴もやりにくいわね」と
ぼそりと言った。

 そして、3週間後の週末、二人は引っ越しをした。
行き先は、下北沢のその部屋ではなく、今までのアパートからさらに徒歩8分ほど奥まった2DKの古いアパート。
 個室が欲しいというのがばふこの言い分だったけれど、本音は、田澤店長のいるバイト先に少しでも近いほうがよかったんだろうと思う。女ってやつは、男次第でころっと気持ちが変わってしまうんだから、まったく。でも、タイルが少し割れた風呂には追い炊き機能もついていて、ばふこの日課である半身浴もやりやすそうだった。ベランダからは、東京にはめずらしく緑が見えた。

 運送屋のトラックが走り去ったあとの、ダンボールを積み重ねた部屋には、まだカーテンもかかっていない。
 雑然とした中に、二人でごろりと横になると、西の窓から差し込む冬の夕日が暖かかった。
「迷惑かけたわね」
ばふこが初めて言った。ハッと横を向くと、彼女は天井を睨めつけている。視線の先には、茶色いシミが見えた。泣いているのかとこっそりうかがってみたけれど、涙はなかった。
「どういたしまして」
「これからもひとつよろしく頼むわね」
「こちらこそ」

ばふこといっしょに暮らし始めて、9か月目の出来事だった。

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