14. 12月のヒマワリ

 ばふこが昇給した。それも、時給320円から一気に800円に。
「あのオアシス店長が上げてくれたの? 労働基準法が何かに、ひっかかったのかしらね?」
 驚いて私が聞くと、ばふこは、ブンブンと頭を振って、
「違う。この秋から、店長が変わったのよ」
と怒ったように言うのである。そして、
「田澤店長は、オアシス店長なんかよりも、よっぽどちゃんとしてる。良心ってものがある。パソコンも使えるし」
と、自分のことのように誇らしそうにしている。
最近では、アルバイトのあと、その新しい田澤店長とやらにパソコンの使い方を習ったりしているのだそうだ。
「へえ......。よかったね」
 そうは言ったものの、私はちょっと心配だった。ばふこのことを理解してくれる人ならばいいけれど......。あの小学生のいじめの一件以来、ばふこの周囲にいる人間たちに、私はちょっと過敏になっていた。
「お給料が倍以上になったから、これからは家にお金入れるわね」
ゴキゲンなばふこは、殊勝なことを言ってみせたりもしていた。

 翌日、私は、久しぶりにダイエーの100円ショップに行った。幸い、その日、ばふこは店にいなかった。
 ばふこは、私がアルバイト先に顔を出すことをイヤがっていた。「子どもじゃないのよ」とよく言っていた。そのくせ、初対面の人に対しては、「仔犬のばふこです」と、しゃあしゃあと自己紹介したりしていた。ばふこは、少なくとも生後1年は経っている。本当のところは、もっともっと経っているはずだ。だって、雨の日には膝が痛むくらいなのだから。それなのに、(かわいい)仔犬を自称するとはかなりずうずうしい。非難する私との間で、よく言い争いになっていた。

 それはさておき、新しい店長は、一体、どいつだ? 
 商品を見るふりをしながら、ちらちらと店内をうかがっていると、レジに、見慣れない、背の高い若い男がいた。だぶだぶのワークパンツを穿き、頭に手ぬぐいを巻いていて、首から大きな携帯電話みたいなものを下げている。およそ店長らしからぬ風情なのだが、ネームプレートにはちゃんと「タザワ」と書かれている。

 セロテープとお茶漬けの素を選んでレジに持っていくと、田澤店長は、
「あ、このセロテープはっ! 売っている私が言うのもアレなのですが、あまりよくないんですよ。すぐビロビロ切れちゃって。こっちのほうがいいですよ」と、違う商品を持ってきた。
「はぁ、じゃあ、そっちにしてください」
 会計を済ませて、ふと思いついて言ってみた。
「ばふこがお世話になっているそうで。私、あの子のルームメイトなんです」
「あっ、そうなんですか。こちらこそ、お世話になっています」
 100円ショップのレジスター越しに、二人とも深々と頭を下げた。首から下げた携帯電話状のものが、ゴチンと音をたててカウンターに当たった。
「あのぅ、その大きい携帯電話みたいのは何ですか?」
「あっ、これは、ザウルスといってですね、PDAの1つなんですが、PDAってお分かりですか?」
「お分かりじゃないです」
 店長はくじける風もなく、とうとうと話し始めた。
「PDAとは、電子手帳のことなんですね。今時の電子手帳はですね、ここをこうやって、こうやると、ホラ! 音楽だって聞けるんですよ」
 流れてきた曲は演歌だった。こぶしをきかせて歌っているのは、田澤店長その人らしい。若い男の電子手帳から演歌のカラオケ.......。呆然としていると、
「あっ、これは、私が作曲した演歌でして。この曲持って、コロムビア・レコードに売り込みしているんですよ。なかなか、うまくいかないんですけどね。芸能界は厳しいですね。どうでしょうね? 結構イケてると思うんですけど」
 田澤店長は、こちらの顔色を伺ったが、私には演歌の素養がまるでない。そう答えると、店長は、普通はそうですよね、と頷いた。
「いや、いいんですよ。自分で面白がって作っているだけですから。で、ザウルスなんですけど、もちろん手帳としての機能もあります。ほらね、ここをこうやると、メモも取れる。なかなか便利なんですよ。ただ、電池があまりもたなくてですね。でも、最新機種は、ずいぶん電池がもつようになってきているんですよね、そもそもベースとなっているOSが違うんですけどね。いっそ買い替えようかとも考えたんですが、そうすると、今までに買ったソフトが使えなくなってしまうんですよ。通信カードも併せて買い換えなくちゃいけないし。実に悩ましい。でも、最新機種は、こんなことも、あんなこともできてですね」
「あのぅ、私、もうそろそろ行かなくちゃいけないので」
「そうですか」
 田澤店長は、まだまだ話し足りないらしく、残念そうだった。そして、少し改まった顔になって、
「ばふこちゃんは、いい子ですね。ちゃんとしてる。時間も働き方も」
と言った。
 ちゃんとしてる――。そういえば、ばふこも、店長について、同じことを言っていたっけ。この二人は気が合うらしい。田澤店長なら、ばふこを傷つける心配もなさそうだ。私はほっとしたし、うれしかった。頑張るばふこを、どこかで見ていてくれる人がいたことが。

 そのうちに、季節は晩秋から冬になった。東京の街は、クリスマスの華やかなイルミネーションに彩られた。街をあげて浮かれている。でも、恋人のいない私には関係ない話だった。あと、恋人が浪人生の千夏さんにも。佐藤くんはニ浪目で、背水の陣ってやつだった。追い込み中であるからして、千夏さんと遊んでいる余裕はないらしい。
 クリスマスイブは、やっかいなことに休日だった。平日ならば、会社に行くこともできるのに。私と千夏さんとアパートでビールを飲みながら不毛に騒いでいると、ばふこがアルバイトから帰ってきた。前足には造花を持っている。
「あれーっ、どうしたの? その花」
千夏さんが能天気な声で聞いてくる。
「店長がくれたの」
「あのオアシス店長が?」
「違うってば」
ばふこがイライラと言った。
「新しい店長が、この秋、異動になってやってきたらしいよ。演歌と電子手帳が好きなんだって」
千夏さんに教えてあげると、横からばふこが、
「あらっ、あんた、店に来たの?」
と聞きとがめた。
「あぁ〜、ええっと、行きました。セロテープとお茶漬けの素、買いました。どうもすみません」
「店長がねぇ、今日、これ、くれたの」
ばふこはうっとりしながら、造花を差し出した。
「今日、この前の小学生たちが来たんだけど、私が相手にしないでいたら、帰っていった。そしたら、店長が私のこと奥に呼んで、『よく我慢したね』って、店の棚からこの花を取ってくれたのよ。店長ね、ばふこちゃんはヒマワリみたいだねって。お日様に向かって一生懸命咲く、ヒマワリみたいだって」

千夏さんと私は、その造花をマジマジと見た。
プラスチックの、どきつい黄色いヒマワリ。
「キザだねぇ〜」
呆れて私が言った。
「いいやつじゃないの」
頷きながら千夏さんが言った。
千夏さんは、お酒が入ると、ぐぐっと口調が砕ける。いつものおっとりした千夏さんが影を潜め、酸いも甘いも分かった年増女のようになるのだった。
 ばふこは、茶箪笥の上に飾ってある写真立てを、あっさり片付けると、そこに、ヒマワリを挿した花瓶を置いた。写真立てには、ばふこと私のツーショット写真が入っていた。せっかく東京ディズニーランドで一緒に撮ったのに.....。女の友情なんて、恋の前にはあっけなく吹き飛んでしまうものなんだという当たり前の事実を、そのときつくづくと思った。
「しょうこさんも頑張らないとね。クリスマスなのに、恋も夢もないんじゃ、ちょっと寂しすぎるよ」
千夏さんがはやしたてる。
「そうよ。あんた、来年は、30歳なんでしょ。いよいよ大台よ」
「うう、うるさいっ。私だってどうにかしたいけど、どうにもならないんじゃないの」

 騒がしい二人を置いてベランダに出てみると、夜気が火照った頬にひんやりと気持ちがよかった。
 冬の空には、オリオン座の白い光。東京の、このアパートから見える、数少ない星座のひとつ。空から、このアパートの明かりはどんなふうに映るんだろう?
 通りを隔てた向かいのマンションの窓から、明かりが漏れている。その右隣のアパートからも、左隣の一軒家からも、その先の家々からも。
 数え切れないほどの明かりの向こうでは、東京に暮らす人たちが、それぞれの思いを抱いて、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだり、酔っ払ったり、電話したり、ご飯を食べたりしているんだろう。この東京という街が、そんなにもたくさんの感情を内包しているということに、何だか目眩がするようだった。

 神様。
私も、頑張ろうと思います。ばふこみたいに。だから、どうぞお守りください。
 凍てつくオリオン座を見上げながら、 そう祈らずにはいられなかった。
一年のうちの、この日だけは。

 光に包まれた東京の夜がゆっくりと更けてゆく。
もうすぐ新しい年がやってくる。

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