13. ボーリングの夜

「巨人の長嶋は、俺の高校時代の後輩でよぅ、俺が、バッティングから何から、一から仕込んでやったようなもんでさ。立教に入ってからも、何かっていやぁ、俺んとこ来るもんだから、よくアドバイスしてやったもんだよ。今の長嶋は、俺あってのもの、って言ってもいいんじゃあないかね」

 ホルモン焼き・富美江のカウンターで一人の男がくだを巻いていた。
ママは、セブンスターを吹かしながら、「へえ」とか「そう」とか気のない返事を繰り返している。常連客は、露骨にイヤな顔を隠そうともしなかった。
 私は初めて見る男だったが、どうやらこの店の持て余し者のようだった。
男は、カラオケハウスSHIDAXのロゴが入った野球帽をかぶり、ネクタイをしめている。そういえば、「ザ・ファン」で熱狂的な野球ファンを演じたデ・ニーロも、野球帽にネクタイ姿だったっけなぁ、と、私は思い出していた。

 私の向かいのイスに座っていたHIDEKIは、男の話にイライラしているようだった。それを言うならば、男以外の全ての客がイライラしていた。だけど、いつものHIDEKIなら、酔っ払いのたわ言には頓着せず、飄々としているはずなのに......。その夜のHIDEKIは何だか変だった。

「あいつは38で現役引退したけど、俺ならもっといけたと思うね」
男がそう言ったとき、HIDEKIがイスを引いて立ち上がった。ハラハラ見上げる私をよそに、無表情で男の隣に座ると、
「随分、ボール遊びに自信があるみたいだな。俺と勝負しないか」
そう言ったのだった。
 一体どうしちゃったというんだろう、HIDEKIは。ママはタバコを吸いながら、黙って成り行きを見守っていた。

「なんだぁ? ケンカ売ってんのかぁ? コラァ」
男は凄んでみせたが、大して怖くもなかった。
「そんなんじゃないよ。最近運動不足だからさ、ほら、あそこで」
HIDEKIは、ガラスの扉越しに外を指し示した。指の先には、向かいのビルの屋上に立つ、大きなボーリングのピンがあった。
「勝負しようぜ。1ゲームでいいよ。つきあってくれ」
笑顔で言った。
「ゲーム代はお前持ちでいいんだろうな」
「もちろん、それでいいさ」
男とHIDEKIは、ガラス戸の外に消えた。つられるように、常連の吉田さんと伊東さんと浜安さんも、後に従った。男に比べて、HIDEKIの体はいかにも小さく、細く、頼りなく見えた。

 男達が去った店内は、がらんと静かで、テレビの音ばかりが大きかった。
「どうしよう、トミエさん」
ママは吸っていたタバコを灰皿に押し付けると、居残った客2人に向けて、「ちょっと出てくるから、適当にやっといてちょうだい」と言い置き、エプロンを外した。夜風がすっかり冷たくなっていた。もうすっかり冬のそれだった。

 旧式のエレベーターで5階に上がる。扉が開くと、目の前がもうボーリング場だった。ボールがピンに当たり倒れる音が、派手に響いている。イスも、壁も、床も、ボールも、べたべたしている。ボーリング場特有の、このべたべたが私は苦手だった。

 ゲームはすでに始まっていたが、まるで勝負になっていないことがすぐにわかった。酔っ払いたちのボールは、投げるそばからガターになってしまうのだ。
「あーあ、見ちゃいらんないわね」
ママは腕組みをすると、呟いた。
 男とHIDEKIの投げるボールは、可笑しくなるほど、ピンに当たらない。
常連の伊東さんが、「ほらね、飲酒運転はイカンってことだよ。酔っているつもりはなくても、体はしっかり、いうことをきかなくなっている」と、私に耳打ちした。
 7フレーム目、HIDEKIは第1投を投げたはずみで前のめりに滑り、ボールはごろごろとレーンを転がって、ガターに落ちた。HIDEKIは倒れたまま立ち上がらない。吉田さんが、「おいおい、ヨッちゃん、大丈夫か?」と引っぱり起こした。
 不愉快そうにその様子を見ていたママは、無言でレーンの前に立つと、ボールの1つに指を入れ、助走をつけて、腕を大きくスイングさせた。胸と腰が豊かに揺れた。

 ピンの倒れる音が、まるで違った。破壊的で、本物のストライクの音。
ママは続けて、もう1回投げた。ボールは速いスピードで回転しながら、ピンに砕けた。またストライク。
「さすが、元プロボウラーだね!」 興奮して騒ぐ常連オヤジたちに、
「さぁ、もう、おしまいよ。さっさと店に戻って、たらふく飲み食いして、勘定払ってくれなきゃ。これじゃ、商売上がったりだよ」
ママが言った。そうして、みんながその場を立ち去さっていったが、HIDEKIだけはボーリング場の床に座り込んだまま、いつまでも動こうとしなかった。

 翌日、私はHIDEKIを、美容室に訪ねた。
土曜日だというのに、HIDEKIはいつものように一人でビデオを見ていた。相変わらず、客の姿はない。
私が入っていくと、
「昨日は、どうもカッコ悪いところ見せちゃったね」と、うなだれた。
「ママに謝っておいた?」
「うん」
「何て言っていた?」
「ほっときゃいいのに、って呆れていた」
「HIDEKIさん、昨日、何かあったの? 変だったよ」
HIDEKIは、しばらくの間、パーマ液で荒れた指先を見つめていた。
「まぁね、いろいろあってさぁ」
そして、1枚のCDを取り出すと、店内にかけはじめた。

「シャーリーンの『I've Never Been To Me』。モンテカルロにも行った、ギリシャにも行った、世界中の、パラダイスと言われているあちこちを旅した。でも、自分自身には、まだたどりつけていない、って歌なんだよ」
そして、CDにあわせて低く歌った。
 HIDEKIの声が、私の中に流れ込んでくる。心が揺れた。
「明るくてきれいなメロディなのに、なんだかつらくなっちゃうね」
「そうだね」
口数も少なく、HIDEKIと私は、『I've Never Been To Me』を繰り返し聞いた。

結局、その後も、HIDEKIに何があったのかは、わからずしまいだった。

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