12.英会話



 このままでは、一人頑張るばふこに対して申し開きができないような気持ちになった私は、月曜日の夜、意を決して英会話スクールを訪れた。住宅街の中の、鄙びたそのスクールを選んだわけは、ひとえに月謝が安かったからだが、生徒があまりいそうもないところも結構気に入った。

 二世帯住宅の2階部分を改造したような、不思議な教室だった。重い木の扉を開けると、カラコロとカウベルが鳴った。軽井沢の土産物屋にでもありそうな代物である。

「ようこそ、いらっしゃいませ!」
受け付けに座っていた中年の女性が、ぱっと立ち上がり、溌剌と声をかけてくる。英会話スクールの受け付けをしているくらいだから、きっとバイリンガルなんだ、そうに違いない。
バイリンガルって、どうしてみんな口が大きいんだろう。笑うと、顔の下半分が口になる。はっきりとものを言うためには、そのほうが便利なんだろうか。二世帯住宅の中だというのに、その女性は、紺色のパンツスーツをバリリと着こなしていた。いかにも「できる女性風」である。髪は黒のストレート。バイリンガルのお約束だ。若くて勢いのあった頃の山口美江みたいな。
カウベルと山口美江の組み合わせが可笑しかった。

「スクールに入りたいのですが」
少し演技を交えつつ、おずおずしたそぶりで切り出す。
ワタシ エイゴ ワカリマセン ゼンゼン ダメネ。
「できる風」受け付け女性は、てきぱきとスクールのシステムについて説明を始めた。
溌剌、はっきり、てきぱき。全部、私とは縁のない形容詞だった。

「できる風」は、時おり私に対して質問をした。
「英会話はお仕事でお使いになるのですか?」
「えーと、そういうわけじゃないんですけど。話せたら、転職にいいかなとか。えーと、そういう意味では仕事ですね。でも、今すぐ仕事で使うってわけじゃなくて」
「では、TOEICクラスがいいでしょうね?」
「えーと、そうですね。あ、でも、ちょっとした日常会話に困らないくらいならいいかな、と、はい」
なるべく正確に答えようとするのだが、どうにもあいまいな返事にしかならない。それは仕方がないことだった。なぜなら、私が英語を勉強しようとする理由の半分は、ばふこのためなのだから。そして、残りの半分は、自分のプライドのため。転職うんぬんは、後付でしかない。

 案の定、スクールは繁盛していないらしい。月謝の安いグループレッスンを、というこちらの希望に対して、「生徒数が少ないので、しばらくはネイティブスピーカーとマンツーマンで行うことになります」という話だった。願ったり叶ったりである。可能であるならば、ほかのだれにも私のジャパニーズ・イングリッシュを聞かれたくない。特に同じ日本人には。
最後に、「できる風」はニッコリと微笑むと、
「では、明日の夜7時からお待ちしています」
と、締めくくった。
つやつやとした口紅の赤色が、網膜に鮮やかに残った。

 翌日の夜7時、中学校の入学祝いにもらった古い英和辞典と新しいノートを持って、私は英会話スクールに行った。ばふこも、ちんまりと後ろからついてきた。恥ずかしいからやめてくれ、と懇願しても、
「あんたは、ちゃんと見張ってないと逃げようとするからね」
と、言ってきかないのだった。

 引き合わされた先生は、くるくる巻き毛の若い女性だった。背は見上げるほどに高い。髪も肌も色が薄かった。青い瞳は、ちゃんと見えているのかと心配するほどに透き通っていた。正真正銘のガイジンだった。同じ人間とは思えない。犬のばふこのほうが、よほどしっくりと付き合える。

「ハ、ハロー」声をうわずらせて、ごにょごにょと挨拶する。それ以外、何を喋ったらいいのか、わからなかった。
「ナイス・トゥ・ミート・ユー。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx」
ナイス・トゥ・ミート・ユーしか聞き取れなかった。あいまいに笑っていると、横からばふこが、早口で何かを言った。終わりのほうで、コーデリアという単語が聞こえた。巻き毛先生は、ちょっと驚いたようだが、すぐに笑顔になり、私ではなく、ばふこに向かって話し掛け始めた。
事の展開が、すぐには飲み込めなかった。

「ちょっと、ばふこ、あんた何て言ったのよ?」
「あんたのルームメイトだって、自己紹介したのよ」
「そしたら、先生は何だって?」
「私の姉妹と同じ名前だわ、だって」
ばふこは、片方の眉毛を上げると、それに合わせるように、「エルダー?」と上がり口調で聞いた。巻き毛先生は、「オー、イエース。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx」と答え、なおも熱心に喋り続けているようだった。
ばふこは、「ンゥフ」なんて鼻に抜ける声で頷きながら、小首をかしげて聞いている。

 二人のやり取りをぼんやりと見ているうちに、中学時代の英語教師だった佐々木恭子先生がよくその「ンゥフ」をやっていて、私はそれを耳にするたびに、気恥ずかしさを感じていたことを、突然思い出した。
 この古い英和辞典が、まだ新品だったころのことだ。
当時、私は、初めてのABCに躓いていた。年配の厳しい佐々木先生に、いつも叱られていた。ませた女の子たちの間で、どうふるまえばいいのか、わからなかった。先輩・後輩のしきたりに、辟易していた。周囲の世界に、拭いされない違和感を持っていた。うまく折り合いをつけようとして、必死だった。つまり、あまり楽しくなかった。今よりも、もっと。
 そんなことまでが、「ンゥフ」を聞いたとたん、まざまざと思い出されてしまい、どっと疲れを感じた。家に帰って、もう寝てしまいたくなったが、二人は話たけなわで、ばふこは肉球を口元に当てて、笑ったりしているのである。

 しばらくしたのち、先生は、私の存在を思い出すと、あら、いけない、とでもいうように、やおらテキストを取り上げた。そして、1ページ目をめくると、リンゴの絵を指差しながら、ゆっくり、「アポオ」と言った。
リンゴくらいわかるんだけどな、と思いながら、私もゆっくり、「アポオ」とくり返した。

 アパートへ帰る道すがら、私は少しばふこに腹をたてていた。
「英語を喋れるなんて、知らなかった」
ふてくされて言うと、ばふこはフンと鼻を鳴らし、
「犬はね、耳がいいのよ」としゃあしゃあと答えた。
「ばふこが英語を教えてくれればいいのに。そうしたら、月謝もかからないし、下北沢にも早く住めるようになるのよ」
しつこく言い募ると、ばふこは前を向いてニヤリと笑い、
「他人になんとかしてもらおうと思ってもダメよ。ホントにやりたいことなら、自力でどうにかするしかないわね。長いコンプレックスにも、そろそろ決着つけたいんでしょ」
そう言うと、「スターダストメモリー」を歌い始めた。スターもメモリーもきれいなRの発音だった。

 ばふこは、ずっとそうして、さまざまな困難を一人で克服してきたのだろう、と、ふと思った。前を行くばふこの丸い小さな背中を見つめながら、なんだか胸がいっぱいになった。



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