11.涙の土曜日

 その土曜日は厄日だったのだ。

 ばふこはアルバイトが休みで、朝からパソコンと格闘しているところだった。ばふこの指では、なかなか上手くキーが打てない。
「ああっ、また間違えた」
イライラとばふこが叫び、私は、とばっちりを食わないように、じっと息を潜めて新聞を読んでいた。
しばらくすると、ばふこがまた叫ぶ。
「ああっ、まただわっ! もうっ!」

「まぁまぁ、あんまり根を詰めないほうがいいわよ」
見かねた私が小さく口をはさむと、ばふこはギロリとこちらを睨み、
「あんたの英会話はどうなってんのよ?」ときり返してきた。やぶへびだった。
「あぁ〜ええっと、英会話スクールを探しているとこ」
これは嘘だった。本当は、何にもしていない。
「ふうん、いいわね、ヒトはスクールに行けるから。私もパソコンスクールにでも行きたいもんだわね」
いつにもなく、卑屈な言い方だった。

 重苦しい空気に耐えかね、私が
「ねぇねぇ、ハンバーガーでも食べに行かない? 気分転換は大事よ。おごるわよ」
と誘うと、ばふこもちょっとそんな気分になったらしい。
「それもそうだわね」と、花柄のポシェットを斜めがけにして、もう先に立って歩き出した。

 土曜日のファーストフード店は混み合っていた。
ばふこはチーズバーガーとポテトのLサイズ、オレンジジュース、私はコーヒーを買って、テーブル席についた。カウンターに千夏さんはいなかった。

 食べ始めてほどなく、通路を隔てた向こう側から、何かが飛んでくることに気が付いた。見ると、それは小さくちぎったパンだった。
「ほら、エサ喰えよ」
隣のテーブル席にいる、小学校高学年くらいの男の子4人組がそのパンくずを投げているのだった。みな、そろいのサッカーチームのユニフォームを着て、NIKEのスニーカーを履いている。そのうちの1人は爪を噛みながらゲームボーイをやっていた。テーブルの上には、ハンバーガーやポテトがまだたくさん残っていたが、男の子たちはもう食べる気がないらしい。ちぎっては、通路を隔てたばふこに投げつけてきた。

 テーブルの向こうで、ばふこが体を硬くしたことが、すぐにわかった。
「ばふこ、相手にしちゃ、ダメ!」
しかし、調子に乗った男の子たちはこちらに聞こえるような大きな声で、
「100円ショップにいる変態犬じゃん。犬のくせに、バンダナ巻いて、いらっしゃいませ、とかやってんだぜ」
「クラスの女子が言ってたけど、こいつ、バレエ習ってんだってよ」
「うっわぁ、ブルドックのくせにバレエかよ。げぇ〜、きもわりぃ」
大げさに体をくねらせ、楽しそうにはやしたてた。

 ばふこは同じ姿勢のまま、うつむいてジュースを飲んでいるフリをしている。大好物のポテトにも手を伸ばそうとしない。
「ばふこ、もう出よう」
私が強く言うと、ばふこも小さく頷き、ポシェットの中に、ニ口ほど手をつけただけのハンバーガーの包みをしまった。

 黙って店を出ると、そのまま私たちのアパートまで歩いた。外は行楽日和の好天気で、行き交う楽しげな家族連れやカップルたちが、私たちとは違う世界の人たちのように、遠くに揺れて見えた。部屋に帰ると、ばふこはポシェットからハンバーガーを取り出して、食べながら、無言で泣いた。ばふこのほっぺたは、ケチャップと涙でドロドロになった。

 私は悔しかった。
なんで、ハンバーガーを食べに行こうなんて、誘ったんだろう
なんで、最初からテイクアウトにしなかったんだろう、あんなに混んでいたのに。
そんなことよりも、なんで、あのくそガキどもをやっつけてやらなかったんだろう。
理由は知っている。ばふこは、やっぱり異形だということを、私たち自身がよくわかっているからだ。
じゃあ、なんで、なんで、ばふこは犬に生まれてきたんだろう……。
「ばふこ、泣かないで。こんなの、ばふこらしくないよ。頑張ってよ」
違う、そうじゃない。こんなことが言いたいんじゃないのに、陳腐な励ましの言葉しか思いつかない。

 すると、ばふこは、怒りに燃える目を上げ、
「私は頑張ってる! いつだって頑張っているわよ! バイトだって、パソコンだって、バレエだって。これ以上、もう頑張れないよっ」
言うなり、ポシェットをひっつかんで、部屋を飛び出していった。走る姿は、悲しいほどに犬そのもので、その事実が、また私を滅入らせた。

 夜になってもばふこは戻らなかった。
私は買ったばかりのばふこのピンク色のマフラーを持って、彼女を探しに行った。ばふこが行きそうなところは、だいたい検討がつく。果たして、ダイエーの4階のゲームセンターに、ばふこはいた。スーパーの中にあるゲームセンターみたいな、親の目が届くようなところでは、テーンエイジャーたちは遊びたがらない。このときも、ばふこ以外に客はなく、彼女は1人で機関車トーマスの乗り物にまたがり、薄汚れたガラス窓の向こうの、マンションの明かりを見ていた。

 ばふこは私に気が付くと、決まり悪そうにもじもじと下を向いた。
「ばふこ、ごめんね」
しばらく黙っていたばふこは、
「もしプードルとかチワワとかマルチーズとか、そういう犬に生まれていたんだったら、もっと違ったのに」
と呟いた。そういう問題じゃないような気がしたが、私は何も言わなかった。
 窓の向こうの新築マンションの部屋では、白いレースのカーテン越しに、大型テレビが映っているのが見えた。サッカー中継のようだった。部屋に人影はなかったが、テーブルの上に並んだ料理の皿が、誰かの帰りを待っていることを物語っていた。2人で、それを見るともなく眺めた。

「ねぇ、ばふこ、エアホッケーしようよ」
拍子っぱずれの大きな声で、私が言うと、ばふこは、素直に「うん」と頷き、そして、少しためらったあと、
「前からやってみたかったんだけど、でも、一緒にやってくれる相手がいなかったの」と、蚊の泣くような声で付け足した。
「知ってたよ」
私の言葉に、ばふこは顔をしわくちゃにすると、もう一度、今度は声をあげてオンオンと泣いた。


目次に戻る