1.B・a・f・f・y




 ばふこがやってきたのは、生温かい雨の降る日だった。
 足が濡れるのを嫌がり、4本の足のそれぞれに大きさの違うコンビニ袋をかぶせて、輪ゴムで留めていた。輪ゴムは黄色が2本、赤と緑が1本ずつ。膝をさすりさすり、玄関のあがりかまちに座ると、ガサゴソと音をたててコンビニ袋をはずし、シワの寄った額をピンクのタオルハンカチでふいた。ハンカチには、赤いイチゴが刺繍されていた。雨の日には膝が痛むのだと、後から聞いた。

 ばふこはブルドックの仔犬だ。膝が痛むと言うあたりからして仔犬とは思えないのだが、本人は仔犬であると言い張っていた。

 やってきた日の夕方、ダイエーで犬用の缶詰を買ってくると、鼻を鳴らして不愉快そうにする。オロオロする私を尻目に、ひとりで冷蔵庫の前にイスを運んでよじのぼり、中を物色した挙句、冷凍庫からイチゴアイスクリームを取り出すと、スプーンを使ってていねいに食べた。ふたについたアイスまできれいにこそぎ、食べ終わると前足を合わせた。
 夜になると、ばふこは座布団を2枚並べて私の横に眠った。もうずいぶんと前から、ここで暮らしていたかのように、自然に寝た。あまりに堂々としているので、私も、ばふこはずっとずっと前からここにいたような、そんな気分になった。

 しばらくいっしょに過ごすうち、ばふこは偏食だということが、すぐにわかった。口にするものは、ウインナ、ハンバーガー、フライドポテトにチョコレート、ケーキ、クッキー、そして菓子パン。魚や豆、野菜は苦手で、食卓に出すと、より分けて残す。叱ると、一口だけ食べる。甘いものは好きだが、あんこは嫌い。アンパンは皮だけ、タイヤキは尻尾のところだけ食べる。
 私が外出している日中は、ひとりで菓子パンをかじり、それが終わると、テレビを見て過ごしているようだった。たまたま昼ごろ戻ると、丸い背中をさらに丸めて、『笑っていいとも』を見ながら、うっすら笑っていたりした。
 私はテレビがあまり好きではない。
「またテレビ見ているの? 運動するとか、友だちつくるとか、もっと違うこともしたら?」と咎めると、「だって……」と口ごもり、しばらくすると黙ってテレビを消してしまう。きっと、ばふこのような犬は、犬同士でじゃれたり、牽制しあったりするのが苦手なんだろう。普通になりたくてもなれないのか、もとより普通になる気などないのか。何かの間違いで犬に生まれてきてしまったけれど、この事態に、当人はじめ周囲も戸惑い気味、という印象だった。
 
 ばふこが夢中になるもの。レース、リボン、フリル、アクセサリー、ビーズ、お姫様、バレエ。フィギュアスケートや新体操も好きで、なんとか選手権のテレビ中継を食い入るように見ている。そして、
「この選手のコスチュームは、レースが豪華だわね」
「背中のチャックが目立つわ」
などと、あれこれ批評している。
 茶箪笥の引き出しに、お菓子のきれいな空き箱や包み紙をしまっていて、機嫌がいいときには、見せてくれることもあった。中には、イチゴの刺繍のついたタオルハンカチも入っている。一緒に自由が丘へ行くとか、そんな特別のお出かけのときにしか使わない。ばふこの宝物の一つのようだった。

 ある日のこと、ばふこが
「わたしくを、『ばふこ』と呼ぶのは、やめてくださらないかしら」と言い出だした。
メロドラマばかり見ているので、ばふこのしゃべり方はメロドラマ調だ。
「『ばふこ』って名前、気に入らないの?」
「ダサくって……。『コーデリア』と呼んでくださいな」。
 菓子パンでぷくぷく太った犬を、そんな大げさな名前で呼ぶなんて、私は恥ずかしかった。聞く人はそのネーミングを私の趣味だと考えるだろう。まさか、当人の希望だとは思うまい。
「もう『ももな ばふこ』で住民登録しちゃったの。残念ね」
言い争うのも面倒なので、ぬけぬけと嘘をついておいた。

 ばふこは、眉根を寄せると、
「じゃあ、せめてB・a・f・f・yと呼んでちょうだい」。
「バッフィ......?」
ばふこは、ちらりとこちらを横目で見ると、
「サインしてあげてもよくってよ」。
どこから持ってきたのか、白い厚紙を取り出し太いマジックペンでさらさらと流暢にサインして、yの字の後ろに小さなハートマークもつけた。
そして、その色紙を下駄箱の上に立てかけると、嬉しそうに鼻の穴を膨らませ、
「ねぇ! 芸能人が書いたみたいじゃないこと?」
と言い放った。
「ゲーノー人......ですか」
私は、ばふこの奔放な言葉を、ただ繰り返すしかなかった。

 こんな調子で、2人の共同生活は、ばふこのペースで、唐突に騒々しく始まっていったのである。


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